まち歩きマップ
まちの「息遣い」に出会う道しるべ
まちの「息遣い」に出会う道しるべ
ここ修徳学区は、平安の昔から政治と文化の中心地として栄え、今もなお、路地の奥に職住一体の暮らしが息づく街です。 私たちは、この街に暮らす人にも、新しく訪れる人にも、修徳の「本当の魅力」を知ってほしいと考え、この「修徳まち歩きマップ」を作りました。
これは、単なる観光名所をまとめたガイドブックではありません。 代々この地で商いを続けてきた老舗の誇り。古い町家を活かして、自分たちの手で新しい空間を創り出した若き店主たちの情熱。そして、千年以上にわたり地域の人々の心の拠り所となってきた神社仏閣。
このマップに無数に刻まれている点と名前は、修徳のまちを形作る「人」であり、「暮らし」そのものです。伝統をまもりつつ、新しい試みに挑み続ける魅力的なお店や会社が、この街にはたくさん並んでいます。
修徳学区を歩くと、ふとした場所に、小さな神社やお寺が現れます。 これらは、平安の昔から鎌倉、室町、そして現代に至るまで、このまちに暮らす人々の喜怒哀楽を見守り、日々の祈りを受け止めてきた「まちの記憶」そのものです。かつて牛若丸と弁慶が出会ったとされる松原通の面影や、和歌の神様を祀る社、藩邸の跡地に残されたお稲荷さん。ここには、日常生活の中で、何百年も変わらない、静かで温かいまちの息づかいがあります。
まち歩きの終わりに、あるいはお店を巡る途中に。 修徳のまちを次の100年へとつなぐ、歴史の「器」たちへぜひ足を運んでみてください。
当神社は、平安時代から鎮座していたとされ、『今昔物語集』巻第20には「五条ノ道祖神」、『宇治拾遺物語』巻1には「五条の斎」として記載されています。神社のすぐ北を通る松原通は、平安時代の五条大路にあたり、清水寺への参詣道としてもにぎわったため、道路や旅行の神として信仰を集めました。
現在は、猿田彦命と天鈿女命を祀っており、道の神(旅の守護神)・塞の神(厄災を塞ぐ神)・夫婦円満(家内安全)・縁結び(子孫繁栄)・商売繁盛などの神として信仰を集めています。5月には春の大祭り、11月にはお火焚祭がおこなわれます。また、平安時代、この社にお籠りをしていた和泉式部のところに、読経の上手な道明阿闍梨が通ってきていたとも伝えられます。(『宇治拾遺物語』)
江戸前期に当地は、間口十一間の芸州広島藩四十二万石浅野氏松平安芸守の京屋敷で、その後1730年頃丹波篠山藩五万石松平紀伊守信岑の京屋敷となり、これらの京屋敷内にあった稲荷神社が、この地に残りました。明治二年版籍奉還の時に、藩名は亀岡と改称しされました。
亀山稲荷神社の祭神は二神あり、江戸時代からの亀山藩邸の鎮守の神・白瀧大明神と、明治維新に神仏分離令により合祀された親鸞ゆかりの大泉寺花月亭の鎮守の神・花月大明神でされた親鸞ゆかりの大泉寺花月亭の鎮守の神・花月大明神で大明神であります。当町内は、豊臣秀吉設定の祇園祭・岩戸山の寄町として米六斗を明治四年まで奉献しました。1996年に寄町制を復興して今に至ります。
この神社は、文治二年(1186)後鳥羽天皇の勅命により、藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の歌人として名高い藤原俊成が、五条大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に、和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請したことに由来します。
江戸時代末期まで、天皇、将軍、公家たちが歌合せに集い、災害にあったときには朝廷や幕府から金貨が寄進されるなど、常に再興され重んじられてきました。
『御伝鈔(本願寺承認伝絵)』によれば、親鸞聖人は関東から帰洛されたのち、当時の五条西洞院(現在の松原通西洞院)に住まわれたとされています。親鸞聖人は63歳でこの地に戻り90歳の天寿を全うされました。寺の前には、「親鸞聖人御入滅之地」の石碑があります。
光圓寺と大泉寺一帯は、関白九条兼実の花園別邸の跡地で、兼実が帰依している法然上人と一緒に、別邸の庭の「池に映る月」を鑑賞していたという伝承があります。この池が「月見の池」といわれる由縁であり、現在もこの寺の庭には、縮小された「月見の池」があります。
藤原俊成(「新玉津島神社」の項参照)を祀る神社です。寿永2年(1183)、俊成は本邸宅の室町寄りに千載和歌集の和歌所を設けました。平家の都落ちに際し、平忠度の一首 「さざなみや 志賀のみやこは あれにしを むかしながらの 山ざくらかな」を俊成が「詠み人知らず」として選んだのは有名です。